メーカー、IT企業などの専門的・国際的法務ニーズに応える / 知財・国際争訟専門家集団 弁護士法人イノベンティア 代表 飯島歩弁護士

このエントリーをはてなブックマークに追加

東京メトロ有楽町線「麹町」駅から徒歩3分、伝統ある文藝春秋のビルに東京事務所を構える弁護法人イノベンティア。同事務所は、2016年4月に東京と大阪で開業。東京事務所は当初内幸町にあったが、2017年1月5日より現在の紀尾井町に移転し、増床したばかりだ。今回は、オープン直後の新東京事務所を訪れ、そこに所属される弁護士の先生方にお話しを伺った。

飯島歩先生(弁護士・弁理士・ニューヨーク州弁護士)
京都大学法学部出身の飯島歩弁護士は、1994年に関西の大手法律事務所である北浜法律事務所に入所、約6年間のアソシエイト時代を経て、米国のデューク大学ロースクールに留学した。ロースクールでは知的財産法を学び、2001年にLLMを修了、ワシントンDCに移り、米国有数の名門法律事務所エイキン・ガンプ・ストラウス・ハワー・アンド・フェルド法律事務所において企業再生及び知的財産を取り扱う。帰国と同時に特許庁に入庁し、法制専門官として特許審判・審決取消訴訟制度の改正等に携わった。北浜法律事務所に戻ってからは、2006年より代表社員を務めたが、2016年4月に独立、弁護士法人イノベンティアを設立した。本日は、その生い立ちから、北浜法律事務所時代のこと、独立の狙い、今後の展開などについてお話しを伺っていく。

小さくても、最高水準の専門的サービスを提供

飯島 歩 弁護士

– 独立されてもうすぐ1年ですね。

2016年4月1日開業なので、12月末でちょうど9カ月経ったところです。

– その間どんな日々でしたか。

イノベンティア立上げ直後は本当にバタバタで、その前の準備期間も含めて丸1年以上休まずひたすら働きました。従来のサービスレベルを維持するためには全く人手不足。短期間で一定程度の陣容にしたいと考えていたので、東京・大阪の2か所で事務所を同時開設し、間接部門も置く大阪では面積的に余裕のある事務所を借りました。で、人手不足な割に固定費高めでスタートとなったので、最初の数か月間は、資金繰りではらはらしました(笑)。幸いにして素晴らしい人材が次々と集まってくれたので、人手不足は落ち着くかな、と思ったのですが、増員に伴って東京事務所を内幸町から紀尾井町に移し、増床することとなったので、秋頃から再びてんやわんや。先週移転作業が終わって、ようやく落ち着きました。本当にあっという間の9カ月でした。

– 現時点では、日本の弁護士5名、弁理士2名、ロシア・ウズベキスタンの弁護士が1名という体制ですね。

はい。それと事務職員が5名、外部顧問が1名。やっとスタート地点には立てたかな、という感じですが、短期的にもう少し増強を考えています。当面は、東京、大阪双方で積極的に良い人材を求めていきたいですね。

– 事務所のコンセプトはどのようなものでしょうか。

「イノベンティア」というのは、「Innovation + Venture + Frontier」を意味する造語なんです。リーガルサービスにも常に革新を考え、ベンチャーマインドを忘れず、フロンティアを拓き続ける。小さくても、最高水準の専門的サービスを提供できる法律事務所、そして、人を軸にして展開していく法律事務所というのがイノベンティアの基本コンセプトです。

– 業務内容は。

現状は知財ブティックというべきでしょうね。私の仕事は7、8割が特許などの知財で、クライアントもメーカーやIT企業が中心なので、事務所としては、知財中心に、メーカー、ITなどの業界の専門的ニーズに広く応えていこうと考えています。

自分はどんな商売をやるか考えるのが習慣だった

– 北浜法律事務所には20年以上いらっしゃいましたね。

94年4月から2016年3月末までなので、丸22年ですね。本当に長い間お世話になりました。でも、同じ年だからなんとなく感覚が分かると思いますが(飯島弁護士とインタビュアーとは高校の同窓)、50歳を目前に、弁護士人生の後半戦というか終盤戦というか、一応弁護士としての知識も経験も積み上げ、やりたいことも見えた中で、これからどうしようかと考えたわけです。お世話になった北浜法律事務所で骨を埋めようかとも思いましたが、最後はわがままをして、自分のやりたいことをやらせてもらおうと。

– 心情は分かりますが、それでも、この歳であえて独立を選択したことに何か理由はあるんですか。

元々ウチは商売人ばかりで、独立志向が非常に強いというのは確かだと思います。本来もっと早く独立してもおかしくなかったけど、北浜法律事務所は居心地が良くて、長く残ってしまった、ということかもしれません。

– ウチというのは。

実家です。生まれた環境が、近親にサラリーマンは一人もいないんですよ。祖父は鍛冶屋で、父は当初それを引き継いだ鉄工所。不況の時に事業を畳んで、そのころ流行り始めの塾経営をやっていましたね。私も当時大学生だったので、一緒にどんな商売をやるか考え、塾の立上げも少しだけ手伝わせてもらいました。母方は、神戸の下町の写真屋。物心ついたころには暗室に入って現像作業を見るのが楽しみでした。私の2人の弟も自営です。

– 事業家になりたいと。

そんな環境なので、そもそも給料をもらう立場になろうという発想がなくて。というか、勤め人の世界を知らないので、自分はどんな商売をやるか、ということを考えるのが習慣みたいになっていました。他人が作った大樹の下で生きるのはかっこ悪い、という感覚も強くありました。今はすっかり大人になって、そんなことは思いませんけど(笑)。

– それで、司法試験を志したんでしょうか。

いや、実は司法試験はまともな動機というのはなくて。学生時代、バイトと音楽活動をずーっとやっていて、大学4年生の時に気づいたら卒業に必要な単位どころか、教養の単位が半分もなかったということがわかったんです。京都大学は留年が無いので進級してしまってた。でも、4年を超えて大学に残るとなると、親に何て説明しようかな、と考えて、ちょうど法学部だったし、「そうや、弁護士目指す!って言おう」、ってことで(笑)。

– バイトと音楽活動ですか。

さっきの話ですが、大学入学直後に家業の業績が悪くなって、会社を閉じたんですね。2人の弟はまだ高校生で、これから大学に入れないといけない。で、当時18歳の私もいいかっこして、「自分のことは自分でやる」と宣言して、ボロボロのアパートに引っ越して、バイトで学費や生活費を稼いでいました。家庭教師、塾講師、引っ越し、中古車センターの車洗い、マクドナルドの掃除、道路工事、デパートの特売の売り子。他にも、思いつくことは何でもやりました。貧困家庭向けの奨学金ももらいましたね。体を壊したり、せっかく貯めた授業料を空き巣に盗まれたりとか、辛いこともあったけど、誰かを養う責任があるわけでもなく、短期間なので、ゲーム感覚で貧乏を楽しんでました。

– 音楽はどういうジャンルを。

R&Bやブルースをやってました。昔からドラムをやってたんです。京都って、ソウルミュージックのメッカだったんですが、それが京大を選んだ動機の一つでもあります。京都市内のライブハウスなんかで演奏させてもらっていました。

– 弁護士を目指すと宣言して勉強を始めた。

はい。法学部の学生といっても、単位が全然なくて司法試験を留年の言い訳にしたくらいなので、法律の勉強なんてしたことなかったのですが、勉強を始めてみたら、面白いんですよ、これが(笑)。動機は不真面目でも、勉強をして初めて法律の面白さに気付いたんです。初年度は憲、民、刑の教科書を買い揃えたところで試験だったので全然ダメ。その後1年くらいは惰性で結構遊んでいたんですが、3回目の1991年の試験で無事受かることができました。

– それで大学は晴れて卒業を。

いや、当時の制度だと、秋に司法試験に受かると、翌年4月から司法修習生になるのですが、3月に卒業できなくて。そもそも単位が全然なくて司法試験を受けたので、合格したのはいいんですが、その間単位を取るのを忘れてたんです(笑)。あまりにも関心がなくて。それで、京大を卒業したのは司法修習が始まっていた1992年の9月。卒業式はなくて、すごくお世話になった教務係のおばちゃんから廊下で卒業証書をもらいました。「飯島くん、やっと卒業おめでとう」ってね。知らない偉い先生からもらうより、その方が嬉しかったですよ(笑)。ちなみに、学生のまま修習生になり、修習中に大学を卒業したのは日本史上初だったらしいです。

最初は苦行だった特許

飯島 歩 弁護士

– それで94年に北浜法律事務所に入られたとのことですが、なぜ北浜法律事務所をお選びになったのですか。

北浜法律事務所は当時から倒産法に強い法律事務所なんですが、自分自身、家業をたたんで、新たに事業を始めるのを身近で見たので、倒産法や事業再生をやろうと思ってました。

– 94年というとバブル崩壊で、倒産法ですととても忙しかったのではないですか。

新人時代は、確かに忙しかったと思います。でも、ダラダラ仕事をするのが好きではなくて、「土日は職場の方向に顔を向けるのも嫌だ」なんて生意気なことを言っていたくらいなので、可能な限り18時に帰ると決めてました。弁護士1年目で子供が生まれたんですが、妻も弁護士で家事も半々と決めたので、何しろ18時に切り上げる、というのをやってました。先輩に「また早引きか」とか言われながら。

– それをずっと続けてきたんですか。

いや、無理です(笑)。2、3年目になって仕事も分かってきて、どんどん案件を振ってもらえるようになって、その頃からですかね、一時期は毎日夜中までというスタイルになりました。でも、何度も態勢を立て直して、パートナーになってからも、オンとオフを切り分けて、なるべく早く帰り、土日は休む、ということは実践してました。アソシエイトに手伝ってもらえるようになってからも、みんな私が土日は働かないことを知っているので、計画的にドラフトを上げてくるようになりました。ボスが土日に働きすぎるのはダメですね。

– アソシエイトの頃お世話になった先生についてお聞きしてもよろしいですか。

北浜は特定のボスにつくシステムではなかったので、先輩がみんな先生という感じでしたね。北浜の良いところです。いくら憧れても、誰かのスタイルをそのまま真似なんてできないので、いろんなスタイルを見ながら自分のやり方を確立していくしかない。それで、できるだけいろんなパートナーと均等に仕事させようということで、案件が割り振られるのです。当時だと、八代紀彦先生(2001年鬼籍)、佐伯照道先生、天野勝介先生、中島健仁先生(2007年鬼籍)、森本宏先生の5人が特に指導を受けた先輩でした。緻密な理論家だったり、交渉上手だったり、それぞれに特長があって、個性も強くて、公私ともに学ばせて頂きました。

– 倒産法をメインにされている法律事務所に入所されて、どういう経緯で飯島先生の注力分野が特許になっていったのでしょうか。

倒産事件って、会社を丸抱えで面倒を見る、というようなところがあるので、あらゆる法律問題が出てくるんです。それで、私くらいの世代の弁護士が、それぞれ倒産法以外の自分の得意分野を見つけていったんですが、私の場合、それが特許だったんです。選んだのが特許という専門性の強い分野だったので、北浜法律事務所では専門化推進の最右翼になりましたね。全体的にジェネラリスト志向の強い事務所なので、最後まで異端だったと思います。

– 特許に関心を持った理由はありますか。

身近な経験でいうと、家業で、父が発明したある加工装置を巡って特許のトラブルがあったり、子供の頃、父が「特許を取れ」と言っていたこともあって、何となく興味はありました。それと、元々性格が理科系志向なんだと思います。算数は苦手でしたが、科学系が大好きで。

– でも、文系に行きましたよね。

私、実は赤緑色盲なんです。昔は赤緑色盲の人間は理系に行っちゃいけないと言われていて、自分は理科系に行ってはいけないのだと信じて育ったんです。性に合う仕事を見つけたので結果オーライですが、今から思えばひどい話ですね。それでも、子供のころは、創刊から毎週「ニュートン」を読んで、ブルーバックスとか、科学系の本を漁って読んでました。コンピュータ・プログラムのアルゴリズムを考えるのも楽しかったですね。

– それで、弁護士になってからも理系の仕事が面白いと思った。

うーん、技術的要素の強い案件は楽しかったですが、特許はやはり苦行でした(笑)。明細書なんて、見るのもうんざりでしたね。当時の感覚としては、「縦のものを横にしたら同じかどうか」みたいな議論に思えて、「こんな辛気臭い仕事、やってられるか!」というのが正直なところでした。ただ、北浜法律事務所は先ほども申し上げたとおり、倒産法の弁護士ばかりでしたので、技術系の案件が来ると、「これ飯島が好きそうやな」ということで投げられるわけです。

– 知財事件の件数は多かったのですか。

当時の北浜は、本人たちもクライアントも知財の事務所とは思ってなかったので、大した件数の依頼はありませんでした。それでも、大阪では弁護士数が多い事務所だったので、特許に限らず技術系の事件が大小問わず私に集中すると、そこそこにはなるわけです。やっているうちに少し勝手も分かって楽しくなってきた、という感じでしょうか。

– 当時、事務所に特許事件を扱っている先輩はいなかったんですか。

たまたま案件が来たら受けるだけで、専門的にやっている人はいませんでした。2、3件やったら専門家みたいな感じでしょうか(笑)。私ともう1人の同期が特化し始めたのが最初だと思います。

– 最初は苦労したでしょうね。

確か入所2-3年目にボスのお客さんの特許事件に関わらせてもらいました。その事件は訳が分からないままでしたが、何となく様子が分かると、今度は逆に訳が分からないほうが一生懸命勉強するんですよね。怖いので。お客さんの立場に立つと、今から思えば恐ろしい状態だったと思いますけど、暗中模索の状態でやりながら学んでいったという感じです。今でも親しくお付き合いいただいている弁理士の鳥居和久先生が、侵害訴訟の経験も豊富な先生で、いつも親切に仕事を教えて頂けたのが大きな安心材料でした。

– どのようにして勉強されたのですか。

教科書はもちろん一生懸命読みました。でも、手頃な入門書もあまりなかったので、判決を読み解きながら勉強するのが一番効果的だったと思います。よかったのは、当時は判決書にまだ古いスタイルが残っていたんですね。当事者の主張や認否がきれいに整理されているんです。裁判官が整理してくれた主張の組み立てで弁護士も書面を書けばよいわけですから、良い教材なんです。まあ、もちろん、それでもよく分からないことだらけだったので、師匠が欲しかったし、今でも誰かにきちんと師事したいという思いがあります。

– 特許以外も扱われているのですか。

コアなのは特許で、私の取扱事件の大半を占めます。残りは商標法、著作権法、不正競争防止法、それから、何らかの形で技術やブランドが関連した仕事ですね。ITの案件も多いです。特許以外でも、知財やITなら、平均的な弁護士より詳しいと思いますよ(笑)。今でも自分でプログラムを書きますし。

入所6年目にアメリカへ留学

飯島 歩 弁護士

– 入所6年目にデューク大学へ留学されていますね。そちらでの生活はいかがでしたか。

デューク大学は、ノースカロライナ州のダーラムという町の、飛行機から見るとちょうど森の中にあるような大学で、その森の中の一軒家を借りて住んでいたのですけど、窓の外を見ると、リスやウサギが遊んでいて、シカが歩いているという環境でした。

– ご家族で。

はい。家族で行きました。というか、もともと帰国子女でアメリカンな妻が米国のロースクールに留学すると言い始めて、私も連れて行かれた、というのが実態なんです。当時の私にしたら、英語もろくにできず、機嫌よく日本で仕事をしているのに強引に連れて行かれた、という感じでしたが、今となっては大きな人生の転機で、本当に無理矢理連行してくれてありがとう、です。妻も同じロースクールに留学したんですけど、当時子供が小さかったので、妻の両親にも来てもらいました。商社マン一家なので、海外に抵抗がなくて、助けられました。

– デューク大学ロースクールでのエピソードって何かありますか。

私がアメリカに行ったのは、クリントン政権の終盤で、ブッシュJr.とゴアが選挙戦を繰り広げていたときです。当時のデュークは、著作権法の大家のライクマンという先生がちょうど移ってこられた時で、米国の著作権制度はユニークということもあり、これを機会に勉強しようと思いました。それで、ライクマン先生に対し著作権法の講義の試験に代えて、論文を出させて欲しいとお願いしたのです。LL.Mというのは1年のコースで、デュークでは卒論は書かなくてよかったのですが、体系的に勉強しようと思ってお願いしてみました。

– 受け入れてもらえたのですか。

彼は、論文は修士コースで何年もかけて書くようなものだからお勧めできない、と言うのですが、私の方は、たとえ駄目だったとしても1科目単位を失うだけだから構わない、著作権法は扱う機会も少ないし、きちんと勉強したい、ということでお願いしたところ、交渉が成立しました。丁寧に指導してもらい、文献を漁って、何とか半期で論文を書き上げたのですが、結果、学年で最高の評価をもらいました。彼に教えてもらったのはいい思い出ですね。ただ、それで完全に気が抜けて、ニューヨーク州の司法試験の勉強をやる気がせず、子供達と毎日遊び呆けていたら直前になってしまって、ぎりぎりで乗り切ったのは冷や汗ものでした(笑)。

1000人規模の法律事務所へ

– LL.M.を終えてエイキン・ガンプ・ストラウス・ハワー・アンド・フェルド法律事務所(エイキン・ガンプ)へ行かれますね。

エイキン・ガンプというのは、テキサスにルーツがあり、ワシントンDCに本拠がある、確か1000人弱くらい弁護士がいた法律事務所です。米国は法律事務所も政府の人材供給源なんですが、エイキン・ガンプはロビー活動で有名な法律事務所で、トランプ政権の主要閣僚にも、エイキン・ガンプの日本人弁護士が1人入っていると思います。

-そちらではどのようなことを。

正直、何か役に立てるかな、と考えているうちに終わってしまった、という感じです。外国の弁護士なので、コアな仕事にはなかなか入れません。ただ、ちょうどその頃、クリントン政権が終わって、エイキン・ガンプの弁護士だったフォーリー元駐日米大使がDCに帰ってきていたのです。米国にとっても、日本は最重要同盟国のひとつなので、駐日大使といえば政府でもかなりの要人です。

– すごい人が事務所にいたのですね。

そういう人が帰ってきた、ということで、これを機に日本に進出するかどうかという戦略ミーティングが開かれまして、私も日本人ということで同席させてもらったのです。2001〜2002年ころのことで、まだかろうじて米国人の間に「Japan as No. 1」の記憶も残っていたころです。議論としては、「米国の法律事務所が日本企業に相手にしてもらえるのか」とか、「日本は何かと参入障壁が高いが、どうすれば乗り越えられるか」とか、「どこの企業をだれがいつごろ訪問すると良いんだ」とか、そういう検討はもちろんするのですが、それ以外に、「日本政府のどこにどういう圧力を掛ければ日本の制度は変えられるんだ」とか聞かれるわけです(笑)。そういう発想、スケールでの議論を法律事務所の中でやっているのには驚きましたね。

– 1000人規模の事務所って、日本では想像もつかないですね。

今日本の法律事務所は最大で500人台です。米国の大手事務所は立派な企業ですよ。

– 仕事のスタイルも違うのですか。

日本の企業法務事務所と比較して、若い弁護士が日常やっていることが大きく変わるわけではないと思います。パートナーの仕事で印象に残ったこととして、今では日本でも珍しくありませんが、仕事を取るのに、大きな案件になると、よくビューティ・コンテストをやってました。各事務所が、弁護士のプロフィールや経験、コストなどをパワーポイントでプレゼンして、クライアントが事務所を選択する、というプロセスです。選ばれた事務所は、派手にプレスリリースしたりもする。

– 大規模事件の獲得合戦は厳しいのですね。

大手が食っていくには大規模事件が必要でしょうから、法律事務所の収益のボラティリティーは高く、リスクも大きいだろうなと思いました。米国では法律事務所の倒産が結構ありますからね。

特許庁で任期付公務員として働いた弁護士第1号

飯島 歩 弁護士

– 帰国後は特許庁で働きましたね。

そうですね。経産省の方から声をかけてもらって、特許庁で任期付公務員として働いた弁護士第1号になりました。法制専門官というポスト名ですが、今では、人気ポストだそうです。

– そこではどういう仕事を。

基本的には、特許審判と審決取消訴訟制度の改正作業に携わらせてもらったのですが、当時は、庁内初かつ唯一の弁護士で、英語も一応できるということで、外国政府との折衝に同席させてもらったり、庁の契約関係のサポート、行政不服審判の対応の手伝い、職員からのよろず相談等々、いろいろ経験させてもらえました。日本の法改正を外国政府に説明に行く際の海外出張にも同行させてもらいました。貴重な経験をてんこ盛りで与えてもらった上、人間関係も良くて、特許庁には本当に感謝しています。

特許訴訟と一般的な民事訴訟との違い

– 印象に残っている事案について教えて頂けますか。

侵害訴訟は、1件1件が印象的ですね。通常の訴訟と比べて、投入する労力が非常に大きく、また、論点が複雑で考え抜くことが多いからです。参照する資料も多く、論理的にも緻密な作業です。侵害訴訟以外では、発明の帰属を巡り、特許を受ける権利の二重譲渡について日本で初めて背信的悪意者排除論の適用が認められた「バリ取りホルダ」事件も印象的でした。一般の方には縁遠い論点ですが、昨年の職務発明制度の改正の一つの背景にもなった事件です。

– 特許訴訟といえば「下町ロケット」が話題になりましたね。

私も、似たような事案を受けさせていただいたことがあります。ある小さな会社が特許権侵害で訴えられて、依頼者の社長が仰るには、顧問弁護士に対応を依頼したけれども技術をなかなか理解しようとしてくれないと。裁判所で裁判官から問われたことにも答えられていなくて不安になり、知り合いの弁理士さんを通じて私のところへ相談に来られたというケースです。

– 特許訴訟の対応は一般の弁護士には難しいのでしょうか。

特許の訴訟は普通の訴訟と進め方が違うのと、細かな制度を理解していないと何が論点かも分からないので、そういったことをご存じない顧問の先生は戸惑われたのだと思います。問題点の抽出もできないまま訴訟が進んでいて、時間の猶予もなかったので、取り急ぎお受けしましょう、ということで緊急に対応することになりました。依頼者が持っている特許も調べて、反撃できないかも考えました。

– まさしく「下町ロケット」ですね。

はい、同じ展開ですね。現実の法廷では、テレビのような感動的なドラマはありませんが、幸い、訴訟は勝ちました。

– すごいですね。

いえ、特許を専門的にやっている弁護士だったら誰でも当たり前の世界で、まさに日常の仕事ですよ。

– 他の企業法務の仕事とは何が違うんでしょうか。

特許権というのは、本来他社の技術利用をやめさせる権利なので、訴訟につながりやすいんです。しかも、訴訟の進め方も、論点も特殊です。相手方の代理をしている先生が、明らかに特許法の知識がないのに、普通の訴訟と同じ感覚で対応しておられるのも見たことがありますが、やはり怖いですよね。日本の裁判所は、弁護士の力量で差がつかないように工夫するのですが、論点の抽出すらできないと、どうしようもありません。

– 他にも印象に残っている事案ってありますか。

米国だとパテント・トロールが跋扈しましたが、その対応をいくつかさせていただいて、米国ならではの現象だと思いましたね。専門家でも難しい技術論争を教育水準もまちまちな市民が陪審員として判断する、そのリスクをビジネスにするわけです。日本にもトロールは入ってきて、訴訟対応をしたこともありますが、しっかりした裁判制度のもと、低いコストで比較的安定した判断を得られるので商売になりにくそうです。

– 実に米国らしいですね。

ANDA訴訟といって、新薬メーカーとジェネリックメーカーの訴訟も、米国の製薬業界の争いの熾烈さを感じました。珍しいところでは、最近まで、日本のほか、シンガポールの裁判所で、ドイツ企業と日本企業が戦った特許権侵害訴訟を担当していました。シンガポールは通商国で、工業は少ないため、あまり特許の訴訟がなく、私が担当した事件は特許法施行後まだ16件目の事件だったそうです。裁判所も少し不慣れな感じでしたが、私たちのチームは、現地人のほか、ドイツ人、スウェーデン人、台湾人、そして私たち日本人と、国際都市シンガポールらしい構成で、貴重な経験でした。

– 他のアジアの国はいかがですか。

中国のほか、日韓関係が非常に悪かった頃の韓国での特許訴訟もありました。日本の実務の感覚からすると敗訴はなかろうという内容なんですが、日本企業に厳しい結論になりました。訴訟の対応の仕方も日本とは全然違っていて、隣国で制度が似ていてもこれだけ違うのかと、とても勉強になりました。

– 今後、国際的な特許紛争は増えていくのでしょうか。

TPPは流れそうですが、WTO体制のもとでは知財制度を整備することが貿易システムへの参加条件ですから、中国を筆頭に、途上国の技術水準が向上することで、今後も絶対数は増えていくと思います。また、外から見ると、腐っても鯛で、日本はまだまだ魅力のあるマーケットですし、日本企業の成長という観点からは、内需が拡大しないなら外に出るしかありません。

今後の展開について

飯島 歩 弁護士

– 今後について教えて頂けますか。

小さくても、最高水準の専門性というのがイノベンティアの基本コンセプトです。闇雲に人を増やすことはしませんが、常に、より良いサービスを機動的に提供できる体制を模索していきたいと思います。

– プロフェッショナル集団ですね。

はい。あと、実はホームページでも触れているのですが、私も子育てや家事を半々でやってきて、いわゆるイクメンの走りみたいな感じだったわけです。それで、仕事に集中できる時間は制約されたけど、子育てに参加したことで人生も豊かになって、他方、時間が限られることでかえって生産性も上げられた。そういう経験を経て思うのは、いろんな制約を互いに理解し、皆で協同して乗り越えていけるような事務所にすれば、それが強い事務所を作る、ということなんです。

– 女性弁護士が多いですね。

当事務所にいる3名の女性弁護士は全員子育て中のママなんです。企業法務をやっている法律事務所だと、子育てか仕事か、と二者択一になることも多くて、事務所を辞めてしまうこともある。でも、それって勿体無いですよね。せっかく力があるのだから、子育て結構、是非当事務所へ来て下さい、と。9時-5時でも1日2時間しか働けなくても、在宅でも良いです。その代わり業務に当てられる時間は最大限の密度でやって、ハイクオリティな仕事を目指してもらう。その気持ちが大事なんです。

– それも経営理念にしてゆくと。

どこまで理念通りにやれるか、公平なシステムが作っていけるか、まだ未知数ですが、そういうコンセプトを大切にしたいと考えています。

– 対クライアントについてはいかがですか。

ベースとして、知財は当事務所のコアな業務なので、この分野で最高水準のサービスを提供する事務所であり続けたいと考えています。もちろん、対応できる業務分野は拡大していきます。また、サービスの提供のあり方として、従来の法律事務所とは違った形でのサービスを提供していきたいと考えています。今具体的にご案内を始めて、ご好評頂いているのが、「契約書のレビューのアウトソーシングサービス」なんです。

– 通常の契約書のレビューと違うのですか。

契約書のチェックというと、まず法務部の人がやって、手に負えない、あるいはリスクの高い契約書だけ法律事務所にレビューを依頼する、というのが普通ですが、熟練の弁護士なら30分で読める契約書を、法務部の方が、時には半日も1日も掛けているケースだってある。リスクが網羅できているとも限らない。そこで、そういう部分を我々がお引き受けしましょう、と。リスクの有無の一次スクリーニングを法律事務所がやって、リスクがある契約書については、法務部内、会社内でしっかりと検討し、対策して下さい、というコンセプトです。

– ありそうでない考え方ですね。

こういうサービスは、なるべく企業の業務フローに埋め込める形にしないと利便性が出ないので、専用のメールアドレスを割り当てて、発注を簡単にしたり、いちいち見積もりを取らなくても良い料金体系や、利用ごとに利用量が分かる仕組みを考えたり、あるいは、社内の業務フローに埋め込める書式を利用したりしています。それぞれ単体では何のことはない工夫ですが、組み合わせていくと、我ながら、結構便利なサービスになるわけです。こういう仕組みを工夫して考えていくのが好きなんですよ。

リフレッシュについて

飯島 歩 弁護士

– お忙しいとは思うのですが、リフレッシュはどのようにされているのですか。

音楽活動は趣味として引き続きやっています。年に数回東京や大阪で、昔の仲間と集まってライブ活動をやっています。プロになった仲間もいて、そういった人たちとも東京と大阪でライブをやったりしているのですが、すごく楽しいですね。

– 写真も好きですよね。

独立を決めてからあまりできていないですが、モノクロの写真を昔ながらのフィルムで撮影するのが長年の趣味です。物心ついた頃、写真屋だった母方の実家で祖母と一緒に暗室に入るのが楽しかったんです。昔は当たり前だったんですが、現像もプリントも、薬品を調合し、温度調整しながら自分でします。

飯島 歩 弁護士

– このデジタルの時代に、趣味とはいえ、大変じゃないんですか。

フィルム現像というのは、決められた手順をタイマーで計りながら秒単位の精度で機械的に進めていく作業です。私の場合、休日の朝などに、2つのタンクで1日に合計8本のフィルムを現像するんですが、それでトータル約2時間の作業。これの何が良いかと言うと、無心になれるんです。厳格に温度管理しながら、正確なタイミングで薬液の注入や撹拌、排水を連続的に行うので、その間作業に集中し、一切他のこと考えない。電話も出ないし、来客にも応じない。すごくメンタルに良いと思います。

– アウトドアはいかがですか。

私の好きな写真は、街のスナップなので、結構歩きます。露出計もないような古いマニュアルカメラを使うので、感覚で光を把握し、とっさにシャッタースピード、絞り、ピントを合わせながら撮影するのですが、これって体も脳もフル回転です。それから、これまた最近サボってますが、自転車も好きですね。片道20キロの通勤をロードバイクで走ります。金曜日に大阪から金沢に出張した時に、自転車を持っていき、翌日1日かけて帰ってきたこともありました。自動車の多い国道を避けて遠回りしたこともあって、早朝から深夜までかけて300キロ近く走りました。

採用について

– 冒頭で人員増強のお話もされていましたが、弁護士ジャパンインタビューは弁護士の先生にもお読みいただいているようですので、採用についても最後にお話頂けますか。

はい。まだ力不足ですが、東京、大阪とも、当面は人員を厚くしていきたいので、採用を積極的に考えていきます。イノベンティアは、知財・企業法務で経験を積むには良い環境だと思いますし、長時間労働に価値を置く風土もありません。プロなので、自分の判断で長時間働くのは自由ですが、私自身、恒常的に長時間労働すると創造性を失うと思っているので(笑)。ただし、アウトプットに対しては厳しいので、短時間で良い仕事をしろ、という意味では結構ディマンディングかもしれませんね。でも、ここにやって来た人は、みんな本当に活き活きと仕事を追いかけてますよ。毎日が楽しいんです。

– どんな採用基準ですか。

抽象的な言い方ですが、人物重視です。

– 人物というのは業務経験や人柄などでしょうか。

全人格的判断、という感じでしょうか。前提として、事務所のコンセプトが、企業の法務・知財ニーズに応えるというものですので、企業法務の経験が全く無い、あるいはやる気がない、というのは困ります。ただ、例えば、知財ができなくてはダメ、とかいったことはありません。まずは人ありきで、人格的、能力的に良い人が来てくれれば、知財に限らず、その人が最大限活きるような業務を一緒に開拓していくのが経営の仕事だと思っています。そうだからこそ、逆に、この人に投資しよう、この人の将来を真剣に考えよう、と思えるような人に来て欲しいわけです。

– 今所属している人もそういう観点で採用したのでしょうか。

はい。例えば、当事務所にはロシア・ウズベキスタンの弁護士がいますが、ロシア法・ウズベキスタン法のニーズが直接的にあったという訳ではなく、彼が真面目で、優秀で、ガッツがあるから、来てもらったんです。

– その人の業務は。

それを彼と一緒に考えて、キャリアを描いていく、プロデュースして行くことが経営の仕事ですよね。もちろん、彼にも自分の道を切り拓く努力をしてもらいます。

– 圧倒的に人物重視となると、どういう採用のプロセスなのでしょうか。

当面は中途採用を中心に考えています。ちょっと体育会的でオールドファッションですが、まだ事務所のスタッフの人数も多くはないので、みんなに会ってもらって、できれば1日事務所の机に座ってもらって、調べもののような仕事をお願いして、レポートなんかを作成してもらって、議論をして、食事して、飲んで、みたいなことをやって能力や人となりを拝見します。ロースクール生や合格者の方であれば、今年も数名サマークラークを受け入れましたが、目的は同じです。採用お問い合わせは当事務所のホームページにありますので、興味を持たれた方はぜひご連絡ください。

– 本日はお忙しいところありがとうございました。

ありがとうございました。


右も左もわからない状態で特許の世界に飛び込み、自身で切り開き、生き馬の目を抜くような特許紛争の中を生き抜いてきた飯島歩弁護士は、50歳を目前に控えた2016年4月、大手事務所の代表社員という地位を捨てて、自身の天命を自分の意思のままに生きることを選んだ。イノベンティアに活動拠点を移した飯島弁護士の今後の活躍に期待したい。

飯島 歩 弁護士

飯島 歩 弁護士
弁護士法人イノベンティア東京事務所

1966年 神戸市生れ
1992年9月 京都大学 法学部・卒業 (法学士)
2001年5月 デューク大学 ロースクール・修了 (LL.M.)
2002年7月-2003年6月 特許庁 制度改正審議室・法制専門官
2016年4月- 弁護士法人イノベンティア・シニア・パートナー(代表社員)

飯島 歩 弁護士の詳細はこちら