メーカー、IT企業などの専門的・国際的法務ニーズに応える / 知財・国際争訟専門家集団 弁護士法人イノベンティア 代表 飯島歩弁護士


このエントリーをはてなブックマークに追加

東京メトロ有楽町線「麹町」駅から徒歩3分、伝統ある文藝春秋のビルに東京事務所を構える弁護法人イノベンティア。同事務所は、2016年4月に東京と大阪で開業。東京事務所は当初内幸町にあったが、2017年1月5日より現在の紀尾井町に移転し、増床したばかりだ。今回は、オープン直後の新東京事務所を訪れ、そこに所属される弁護士の先生方にお話しを伺った。

飯島歩先生(弁護士・弁理士・ニューヨーク州弁護士)
京都大学法学部出身の飯島歩弁護士は、1994年に関西の大手法律事務所である北浜法律事務所に入所、約6年間のアソシエイト時代を経て、米国のデューク大学ロースクールに留学した。ロースクールでは知的財産法を学び、2001年にLLMを修了、ワシントンDCに移り、米国有数の名門法律事務所エイキン・ガンプ・ストラウス・ハワー・アンド・フェルド法律事務所において企業再生及び知的財産を取り扱う。帰国と同時に特許庁に入庁し、法制専門官として特許審判・審決取消訴訟制度の改正等に携わった。北浜法律事務所に戻ってからは、2006年より代表社員を務めたが、2016年4月に独立、弁護士法人イノベンティアを設立した。本日は、その生い立ちから、北浜法律事務所時代のこと、独立の狙い、今後の展開などについてお話しを伺っていく。

小さくても、最高水準の専門的サービスを提供

飯島 歩 弁護士

– 独立されてもうすぐ1年ですね。

2016年4月1日開業なので、12月末でちょうど9カ月経ったところです。

– その間どんな日々でしたか。

イノベンティア立上げ直後は本当にバタバタで、その前の準備期間も含めて丸1年以上休まずひたすら働きました。従来のサービスレベルを維持するためには全く人手不足。短期間で一定程度の陣容にしたいと考えていたので、東京・大阪の2か所で事務所を同時開設し、間接部門も置く大阪では面積的に余裕のある事務所を借りました。で、人手不足な割に固定費高めでスタートとなったので、最初の数か月間は、資金繰りではらはらしました(笑)。幸いにして素晴らしい人材が次々と集まってくれたので、人手不足は落ち着くかな、と思ったのですが、増員に伴って東京事務所を内幸町から紀尾井町に移し、増床することとなったので、秋頃から再びてんやわんや。先週移転作業が終わって、ようやく落ち着きました。本当にあっという間の9カ月でした。

– 現時点では、日本の弁護士5名、弁理士2名、ロシア・ウズベキスタンの弁護士が1名という体制ですね。

はい。それと事務職員が5名、外部顧問が1名。やっとスタート地点には立てたかな、という感じですが、短期的にもう少し増強を考えています。当面は、東京、大阪双方で積極的に良い人材を求めていきたいですね。

– 事務所のコンセプトはどのようなものでしょうか。

「イノベンティア」というのは、「Innovation + Venture + Frontier」を意味する造語なんです。リーガルサービスにも常に革新を考え、ベンチャーマインドを忘れず、フロンティアを拓き続ける。小さくても、最高水準の専門的サービスを提供できる法律事務所、そして、人を軸にして展開していく法律事務所というのがイノベンティアの基本コンセプトです。

– 業務内容は。

現状は知財ブティックというべきでしょうね。私の仕事は7、8割が特許などの知財で、クライアントもメーカーやIT企業が中心なので、事務所としては、知財中心に、メーカー、ITなどの業界の専門的ニーズに広く応えていこうと考えています。

自分はどんな商売をやるか考えるのが習慣だった

– 北浜法律事務所には20年以上いらっしゃいましたね。

94年4月から2016年3月末までなので、丸22年ですね。本当に長い間お世話になりました。でも、同じ年だからなんとなく感覚が分かると思いますが(飯島弁護士とインタビュアーとは高校の同窓)、50歳を目前に、弁護士人生の後半戦というか終盤戦というか、一応弁護士としての知識も経験も積み上げ、やりたいことも見えた中で、これからどうしようかと考えたわけです。お世話になった北浜法律事務所で骨を埋めようかとも思いましたが、最後はわがままをして、自分のやりたいことをやらせてもらおうと。

– 心情は分かりますが、それでも、この歳であえて独立を選択したことに何か理由はあるんですか。

元々ウチは商売人ばかりで、独立志向が非常に強いというのは確かだと思います。本来もっと早く独立してもおかしくなかったけど、北浜法律事務所は居心地が良くて、長く残ってしまった、ということかもしれません。

– ウチというのは。

実家です。生まれた環境が、近親にサラリーマンは一人もいないんですよ。祖父は鍛冶屋で、父は当初それを引き継いだ鉄工所。不況の時に事業を畳んで、そのころ流行り始めの塾経営をやっていましたね。私も当時大学生だったので、一緒にどんな商売をやるか考え、塾の立上げも少しだけ手伝わせてもらいました。母方は、神戸の下町の写真屋。物心ついたころには暗室に入って現像作業を見るのが楽しみでした。私の2人の弟も自営です。

– 事業家になりたいと。

そんな環境なので、そもそも給料をもらう立場になろうという発想がなくて。というか、勤め人の世界を知らないので、自分はどんな商売をやるか、ということを考えるのが習慣みたいになっていました。他人が作った大樹の下で生きるのはかっこ悪い、という感覚も強くありました。今はすっかり大人になって、そんなことは思いませんけど(笑)。

– それで、司法試験を志したんでしょうか。

いや、実は司法試験はまともな動機というのはなくて。学生時代、バイトと音楽活動をずーっとやっていて、大学4年生の時に気づいたら卒業に必要な単位どころか、教養の単位が半分もなかったということがわかったんです。京都大学は留年が無いので進級してしまってた。でも、4年を超えて大学に残るとなると、親に何て説明しようかな、と考えて、ちょうど法学部だったし、「そうや、弁護士目指す!って言おう」、ってことで(笑)。

– バイトと音楽活動ですか。

さっきの話ですが、大学入学直後に家業の業績が悪くなって、会社を閉じたんですね。2人の弟はまだ高校生で、これから大学に入れないといけない。で、当時18歳の私もいいかっこして、「自分のことは自分でやる」と宣言して、ボロボロのアパートに引っ越して、バイトで学費や生活費を稼いでいました。家庭教師、塾講師、引っ越し、中古車センターの車洗い、マクドナルドの掃除、道路工事、デパートの特売の売り子。他にも、思いつくことは何でもやりました。貧困家庭向けの奨学金ももらいましたね。体を壊したり、せっかく貯めた授業料を空き巣に盗まれたりとか、辛いこともあったけど、誰かを養う責任があるわけでもなく、短期間なので、ゲーム感覚で貧乏を楽しんでました。

– 音楽はどういうジャンルを。

R&Bやブルースをやってました。昔からドラムをやってたんです。京都って、ソウルミュージックのメッカだったんですが、それが京大を選んだ動機の一つでもあります。京都市内のライブハウスなんかで演奏させてもらっていました。

– 弁護士を目指すと宣言して勉強を始めた。

はい。法学部の学生といっても、単位が全然なくて司法試験を留年の言い訳にしたくらいなので、法律の勉強なんてしたことなかったのですが、勉強を始めてみたら、面白いんですよ、これが(笑)。動機は不真面目でも、勉強をして初めて法律の面白さに気付いたんです。初年度は憲、民、刑の教科書を買い揃えたところで試験だったので全然ダメ。その後1年くらいは惰性で結構遊んでいたんですが、3回目の1991年の試験で無事受かることができました。

– それで大学は晴れて卒業を。

いや、当時の制度だと、秋に司法試験に受かると、翌年4月から司法修習生になるのですが、3月に卒業できなくて。そもそも単位が全然なくて司法試験を受けたので、合格したのはいいんですが、その間単位を取るのを忘れてたんです(笑)。あまりにも関心がなくて。それで、京大を卒業したのは司法修習が始まっていた1992年の9月。卒業式はなくて、すごくお世話になった教務係のおばちゃんから廊下で卒業証書をもらいました。「飯島くん、やっと卒業おめでとう」ってね。知らない偉い先生からもらうより、その方が嬉しかったですよ(笑)。ちなみに、学生のまま修習生になり、修習中に大学を卒業したのは日本史上初だったらしいです。


こんな記事も読まれています