裁判官から弁護士へ転身。複雑な事案でもご相談ください。 / 田沢 剛 弁護士


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東海道新幹線の停車駅で、神奈川県内でも交通の要所のひとつである新横浜駅から程近くに、事務所を構える「元裁判官」の弁護士が活躍している。今回は田沢 剛先生(新横浜アーバン・クリエイト法律事務所代表)にお話を伺った。

依頼者のためにも仕事に忙殺されず、時間的にも精神的にもゆとりを持つことで、ワーク・ライフ・バランスを確保し続ける矜持が垣間見えるインタビューとなった。

「検察官にならないか」とも誘われた

– 弁護士として約15年のキャリアをお持ちで、その前には裁判官として8年間 お勤めになったそうですが、裁判官になろうと思われたきっかけは何だったのでしょうか。

もともと、裁判官になろうと決めていたわけではないんですよ。
法律を扱う仕事をしたくて、そのために弁護士資格が役に立つだろうということで司法試験を受けていて、一方でコンピュータ関連の民間企業で内定が出ていまして、知的財産を扱う部署で働くことまで決まっていたんです。「合格して、司法修習が終わってから弁護士として来ればいい」とも言われていました。

– そこまで決まっていたんですか。

ただ、論文試験までは受かったものの、最終の口述試験(法律家としての能力を面接形式で問う試験)で落ちてしまったんです。

来年また受験しなければならなくなったんですが、そのために試験勉強をしながら会社で働けるのかどうかで 悩みまして、結局 会社には入らないことにして、大学も卒業し、プータロー状態でした。でも次の司法試験に最終合格しました。

司法修習は高知で、有り難いことに検察教官や裁判官教官からも誘っていただいたんです。

– そんなにスカウトがあるとは凄いことですね。相当成績がよかったんでしょうね。

成績はよくなかったですよ。当時は少しでも多くの人材が欲しかっただけだったように思いますが、修習生活を続けるうちに、必ずしも修習を終えたあとに弁護士になる、ということで固めてしまうこともないと思うようになったんです。

公務員になるつもりはなかったけれども、せっかくなら弁護士以外の業務経験を積んでおくのもいいかもしれない。ただ、検事になると刑事事件だけなので、弁護士になったときの幅が広がらない気がしまして、民事も含めていろんな事件に携われる裁判官になろうと決めたんです。

– 普通は、司法試験に受かっても、それらの選択肢を選ぼうにも選べない方が多いわけですから、素晴らしいです。裁判官時代は、どのような案件に携わっていらっしゃいましたか。

最初は名古屋、次に広島の福山、そして横浜の裁判所に配属になりました。

名古屋地裁では知的財産権事件及び行政事件の集中部にいまして、特許や実用新案などの案件を多く扱いましたし、名古屋は市民オンブズマンの活動が盛んでしたので、県や市を相手取った行政訴訟も多かったです。

福山では、民事も刑事も幅広く担当しましたし、家裁では少年事件も受け持ちましたし、簡易裁判所でも仕事をしました。

そして、横浜に戻ってきたんです。おもに強制執行や倒産などの案件を担当しました。

– 横浜地裁に勤めた後にお辞めになったんですね。どのような理由があったのですか。

実家が都内にありますので、ようやく近くに戻ってきた感覚がありました。旧友との交流も復活しましたので、「もうこれ以上、異動したくないな」との思いが強くなったのと同時に、このタイミングを逃したら二度と新たな一歩を踏み出せなくなってしまうんじゃないかとも思いました。

福山ではバレーボールチームのキャプテンを任されたりして、とても居心地がよく、横浜へ異動するときは名残惜しかったのも確かですが、横浜に勤務した後にさらに別の知らない街で裁判官をやり続けるだけのモチベーションを保てなくなったんです。

– 裁判官にとって、異動は宿命のようなものですね。

そうなんです。裁判官になって10年まで(判事補)は2~3年ごとに異動となります。10年目以降の判事でも、異動は3~4年おきに命じられます。

それで「ここは弁護士になる潮時だろう」と思い、2002年に退官をして、最初は相模原で法律事務所を開業したんです。

– いきなり開業ですか。

誘ってくださった事務所もあったんですが、その事務所のボスの姿勢についていけそうもない気がしてお断りしたこともあります。

相模原には司法修習での同期もいましたし、ベッドタウンとして広がりを見せ、人口も増えて、当時は弁護士不足だといわれていたので、仕事を紹介してもらったりもしました。